6月23日 摩文仁の丘での慰霊 ~ざわわ ざわわ ざわわ~

2018年6月29日 00時54分 | カテゴリー: 活動報告

4人に1人の沖縄の住民が亡くなったといわれる、
一般の県民を巻き込んだ地上戦が繰り広げられた沖縄。
その沖縄で、組織的な戦闘が終わった日が6月23日です。

沖縄では学校などもお休みになり、犠牲になった人たちに祈りをささげます。

戦後73年目の6月23日の朝、
摩文仁の丘には、県庁から無料シャトルバスが運行されていました。
私もこのシャトルバスに乗り、
強い日差しが降り注ぐ摩文仁の丘に向かいました。

私が着いた8時半過ぎには、県庁のバス乗り場には
もう行列ができていましたが、思ったより早く乗り込めました。
満席になると随時出発です。補助席まで全て使い、出発です。
行きは 8時から10時。
帰りは摩文仁の丘15時発が最終。
すぐ前にもバスは出発し、
私が乗ったバスの他にも3台のバスが待機していました。
私の隣の見知らぬ男性も、
摩文仁の丘での慰霊の日参加は今回が初めてとのこと。
沖縄県の各自治体には、それぞれの碑があり、
そこで祈りをささげているそうです。

途中、平和行進をしている方々に遭遇。
信号で分かれてしまっていましたが、
その前にもたくさんの方が歩いていました。

まだ準備中の会場に到着し、先に「平和の礎」、
そして平和の広場とその中央にある「平和の火」へ。
「平和の火」は、沖縄戦最初の米軍の上陸地である座間味村阿嘉島において採取した火と、
被爆地広島の「平和の灯」及び長崎の「誓いの火」から分けた火を合わせて
1991年から灯し続けた火を、1995年6月23日の「慰霊の日」に  
ここに移し灯したものとのことです。

朝早くから、たくさんの方々が摩文仁の丘を訪れ、
「礎」に刻まれている家族の名前をなぞり、
手を合わせているのを朝のニュースで見ていました。
「平和の火」の目の前には、
青く美しく、広い広い太平洋が広がっています。
その美しい海に、たくさんの人々が自ら身を投げなければならなかった…
美しすぎるからこそ、そこでかつて繰り広げられた
あまりにも悲惨で言葉にならない苦しみや、大きすぎる悲しみが
胸に深く刺さりました。

摩文仁の丘で、たまたまお会いした
大学1年の学生さんに、写真を撮っていただきました。
初めて「慰霊の日」にいらしたのだそう。
若い方が平和を考えてくれて、嬉しい!
戦争に関して、平和資料館のことなど、いろんなことを教えて頂きました。
その中の一つ。
この「平和の火」は地図をデザインした池の中にありますが、
手前には日本があり、沖縄の部分に「平和の火」が位置しています。
沖縄から平和が波のように広がって行きますようにという願いから
この先にある礎も波のように広がって設置されている、ということでした。 

それらのアドバイスを参考にしつつ、
追悼式の開始時間まで
平和資料館を見て回りました。
(中は撮影禁止でしたので画像はありません。)
涙、涙でした。

県民の4人に1人が亡くなったと言われる沖縄の地上戦。
今でも毎年名前が追加されているそうです。
今現在、24万1525人の名前が刻まれています。
(沖縄県:149502人 県外:77436人
米国:14009人 英国:82人 台湾:34人
朝鮮民主主義人民共和国:82人 大韓民国:380人)

沖縄の北部と中部でも、違いがあったことを知りました。
中部での戦いは、本土決戦を少しでも遅らせるため
降伏をしないことを決定し、首里から南へと移動。
兵士も市民も同じ「がま」に逃げこみ、
子どもの泣き声で米軍に見つかるかもしれないと
日本兵がその子を三角巾で首を締めて殺していた…と。

たくさんの方の戦争の記憶を読みながら、辛くて辛くて。

「がま」の中の様子を展示しているブースでは、
日用品と武器がまじりあって置かれていました。
まだ年少さんくらいのお子さんが、お父さんに
「これなに? これは? これは?」
と聞いていました。
それに、ひとつひとつお父さんが答えていました。

沖縄県平和祈念資料館

こうして小さいときから戦争について感じ、考えることは
とても大事な平和学習だと思いました。

伝え聞くことの大切さを改めて思いました。
板橋の中学生にも見てほしいと改めて思いました。

しかし、戦後73年と、戦争の体験者も高齢となり、

沖縄県平和祈念資料館語り部から引退している人も多いと伺います。

そのような中で、どのように伝えていくのか。
実体験した人の言葉はとても重みがあります。
何度も何度も学び知識を蓄えても、
やはり実体験した人が伝えることとは違います。
それをどう乗り越えていくのか。 
それでも、伝えていくことは絶対に続けることが必要です。
知らないことは、恐ろしい。

いよいよ沖縄全戦没者追悼式。
1100人の参加とか…
翁長沖縄県知事の平和宣言に、大きな拍手が沸き上がりました。
戦争が終わっても、沖縄は占領下におかれ、 
日本に返還されても、米軍基地の問題は未だに大きく横たわります。
翁長知事のスピーチにもありましたが、
日本国土面積の約0.6%に過ぎない沖縄に、
米軍専用施設面積の約70.3%が存在し続けています。
美しい辺野古の海は新基地の工事が進められています。
それらから派生する様々な苦しみが、沖縄の日々の中にあります。

でも、一人一人の交流はあるのです。友人になれます。
でも、どうしてここに基地がなければならないのか?
人間同士の交流と、基地の問題はまた別のものです。
憎み合うのではなく、お互いを大切に思いながら問題を解決していくこと。  
どうしたら、それを進めることが出来るのか。

安倍総理のスピーチにはヤジが飛びました。
沖縄の人たちの苦しみを表す言葉が聞こえました。

そんな会場の空気を一瞬にして変えたのが、 
中学3年生 相良倫子さんの平和の詩「生きる」でした。

倫子さんの朗読は、力強く、声の張りもあり、
リズムの緩急もありました。
詩の素晴らしさに加え朗読の素晴らしさも加わり、
一言一言が胸に響きました。
会場全体が静まりかえりました。

1000近くの応募から選ばれたそうです。
素晴らしかった!
小さい頃から、悲惨な戦争のこと、平和のこと、
ずっと隣り合わせで、いつも考えながら成長していらしたのだろうと想像しつつ聞いておりました。
平和祈念資料館の中にも、子どもたちの作品がたくさん展示してありました。

知ることは大事です。
知らないことは悲しく恐ろしいことです。 

私も、追悼式の最後に、お焼香させていただきました。
会場の前の方にたくさん立てられた白い棒が風にゆれ、
「ざわわ ざわわ ざわわ」と
さとうきび畑に風がわたり、そこに眠る人々を思いました。

こんな悲しみ、苦しみは二度と繰り返さない。

平和祈念資料館から海を臨む

そう心に誓いました。

戦いの中、砲弾でV字に崩れたという山

手前にあるのは日本。沖縄の部分に「平和の火」があります。ここから平和を波のように広げていくようにという思いで、礎も波のように広がって設置されています。